ヒトの習性と会社に関する考察
ヒトが他の動物を語る時って、生態とか習性とか決めつけて語ってる、て思いませんか?
暗黙に、ヒトは知能が優れているから自由意志でイロイロするけど、動物はバカで自由意志がなく、基本、本能しかない。的な?
上から目線の世界観なわけであります
ですけど、そもそも、ヒトってやつは、そんなに高尚な存在なんですかね?
といったことを考えていたら目が冴えてしまったのでオチのない話を書いておこう
ヒトは群れを構成する動物である
自然界には種々雑多なる生存戦略があります
基本的に単独行動のものから、群れを作って狩ったり、身を寄せ合って捕食者に対抗したり、環境や進化の過程で営々と受け継いできた方法論に従って生活しているわけです
そんな中でも、ヒトは群れを作る動物と言えますよね
地縁血縁ベッタリの所謂田舎社会とか、正に村社会ならぬ”群れ社会”ですよね。人情にあついとか、温かみがあるとか、助け合いがあるとか、ほっこり表現されることも多いようだが、結局のところ、本能によってドライブされる、単なる動物の群れにほかならない。
それじゃあ、都会に来たら、人間は突如として本能から解放され、前頭葉がフル活動してユートピアを築くんですかっ? というと当然だが本能ってのはそんなにヤワなもんじゃないわけでして
会社は群れ
ヒトが集まる。何か共通の目的がある。ボスがいて、他のはそいつに従う。それって、会社組織そのものですよね?
村社会の決まり事は、習わしとか風習とか明文化されていないってことがあって、文脈により称賛されたり非難されたりと便利に使い分けられてしまうわけだが
これが会社組織になると、就業規則とか社内規定とか、群れの掟が明文化されているわけだ
これってすごく気持ち悪くないですか?
ルールが明文化されてるのが嫌だと言っているのではありません。村社会から踏み出したところが、実は群れ社会を強化する方向にドライブがかかっている世界なんじゃないの?という。それが、すごく気持ち悪いです
産業革命によって多くの肉体労働が軽減され、IT革命で情報の非対称性が緩和されて、下々のものにはメリットしかありませんでした。
賛否両論なのかもしれませんが、ここ300年くらいのヒトの歴史を紐解けば、平民の連戦・勝利なわけですよ。
であるからして、平民の次の勝利ターゲットは、ズバリ群社会からの解放、自由の獲得なんじゃないかと思ったりしますね
大企業には群れ社会を加速する強烈な正のフィードバックがかかっている
会社はある程度以上の規模になると、個人のスキルとかカリスマ性に依拠したプロセスは悪とみなされます
すなわち業務は須らく明文化・プロセス化され、担当者に依存せず一定の結果が得られるということが是とされているといえよう
群れの個体数が増すほどに、均質化への強烈な正のフィードバックがかかっているんでないの?なんて考えちゃいますね。口ではダイバシティだのイノベーションだの言いますがその言葉を発する人の脳内言語は「誰かなんとかしてくれ」と同義であります
昔から烏合の衆とかいいますけど、正に大企業は、放っておくと烏合の衆ならぬイワシの群れになるは宿命なんじゃないでしょうかね
イワシの群れで消耗するのはもう辞めましょう!
イワシの群れの外側に居ると外敵に食べられてしまいます。捕食者が満腹になってくれれば、群れとしては危機を脱する、存続するので種としては正解なのかもしれません
これ会社にも当てはまりますよ?
社員の個々人は、会社組織にとっては、本当に、心底、マジでどうでもいい存在です
そんなことは百も承知なのに、ヒトは方恋慕でなんも見返りない群れ会社の中で競争に四苦八苦するのですね。それは巧妙に仕組まれた”群れる本能をドライブする仕掛け” に絡めとられてしまっているからに他ならないですね
ヒトに刻まれた生存本能を巧妙に操ろうとするこのシステム、なんか邪悪ですよね?
経済的なラットレースだと思っていた会社員生活は、実はラットレースではなくて、イワシの生存競争だったんですね。群れに囲い込んで、閉じ込めて、競争させて、外側は食われても一部の連中が残ればいい
イワシの中心部(経営層)は、そういう世界観で動いているんですから、そういう世界からはさっさと足を洗いたいものであります